馬尾神経腫瘍(全部)

馬尾神経腫瘍の記録、全部をまとめたページです。内容は、日付ごとのものと同一です。

馬尾神経腫瘍<2005.1.30.記>

数年前から、体調の悪いときに左足~腰にかけて神経痛がありました。当初、ちょっとした椎間板ヘルニアという診断。普段から重い荷物を持って歩いていることも多いから、そのせいだろうと勝手に納得していました。ところが最近になり、体調とは関係なく痛むことも多くなり、改めて受診し、MRIにて撮影したところ、馬尾神経に腫瘍ができていたのです・・・。

【馬尾(ばび)神経:脊髄(せきずい)の下の方にある神経。脊髄は、脊椎(せきつい:いわゆる背骨)の中を通っている中枢の神経です。この脊髄は、腰の少し上あたりでいくつかの神経に分かれます。その分かれた様子が、馬の尾の様なので、この名前があります】
http://homepage2.nifty.com/chasukekun/toubyouki.htmとか
http://kuriken.oheya.jp/hinawiki/pukiwiki.php?%C7%CF%C8%F8%BC%F0%E1%E7%C6%FC%B5%ADを見ると、まったく同じ症状です。(2019.10注:上記ページは現在、無くなっています)

初めての入院だと言うこともあり、既に気分は滅入っています(・_・、)
また3月中旬に担任している子たちが卒業するまで、体調が持つかの不安もあります。足や排出系などに麻痺が来たら、緊急入院だと言われているので・・・。はぁ、どうせ10万人に1人にぶつかってしまうのなら、宝くじでぶつからないかなぁ(注:この病気が、そのくらいの頻度だという話から)。

近況<2005.2.3.記>

馬尾腫瘍については、関連記事で先日書いたとおりです。現在の状況を。ロキソニンという痛み止めの薬を毎食後飲んで痛みを止めています。もし飲み忘れたり、お腹がすいてきたりするぐらいの時間になると足に神経痛がでてきます。ロキソニンは胃を荒らす(というか粘膜に対して何かよくないらしい、確か何だったかの酵素生成の阻害??・・・今度調べます(^_^;))ので、セルベックスという粘膜保護の胃薬を一緒に飲んでいます。ただ薬を飲んでいても、くしゃみや咳、大声での笑いなどが響いて足が痛みます。これが辛い。はぁ、はやく何とかしたい!

本日、入院日などが決まりました。3/23入院、25に手術になりました。

天気が悪いと体が痛む?<2005.2.17.記>

昨日、東京地方は朝から雨のどんよりとした天気。朝起きたときから足~腰にかけてが痛む・・・というよりしびれるような痛み。馬尾神経に腫瘍ができているのは以前に書いたとおりなのですが、恐らくそれと関係しているのでしょう。
脳と脊髄は、一つの袋のような物で、髄液に満たされているそうです。手術の時、背脊髄につながっている馬尾神経をあけると髄液が外へ出て圧力が下がり、頭痛などを起こすことがあるのだそうです。
もしかしたら天気が悪くて低気圧だったせいで、昨日は痛みがでたのかなぁ・・・なんて考えましたが、真偽のほどはさていかに。

近況2<2005.2.20.記>

入院まで約一ヶ月となりました。現在の体の状況です。
痛み止めの薬を飲んでいる限りでは、おおむね普通通りの生活を送れています。ただ天気の悪い日は、何となく足にしびれがあるような感じがします。恐らく低気圧と関係あるのでしょう。一番辛いのは、咳やくしゃみ、大きな笑いなどの振動がひびくことです。座ったままくしゃみをしようものなら、30秒間ほど腰から足にかけてしびれる痛みが走り、泣きたくなります(×_×) 今回馬尾神経腫瘍ということで、最初はすごく不安になりました。ただ前にも紹介した闘病記のHPや薬剤師の知人の方からの情報など、正しく理解していくことで、かなり冷静に受け止められるようになったと思います。また、自分がたまたま生物を学んでいたため、脊髄といった言葉やMRIの画像などを見たとき、きちんと理解できたことが良かったのだと思います。もしここでむやみやたらと”恐ろしい病気”としかとらえられなかったら、冷静な判断もできなかったことでしょう。生きていく上でやはり勉強は必要だな、と改めて実感している今日この頃です。

2005.3.23.入院生活一日目<2005.3.23.記>

2005.3.23.入院生活一日目。いよいよである。

 自宅を出て近くの交差点でタクシーを拾い、妻に付き添ってもらい午前9時前帝京病院着。ロビーや児童受付装置などは新しい感じを受ける。朝からたくさんの人がいる。入院手続き窓口に行く。一人待ちで受け付け。自分にとっては特別な”入院”という出来事も、病院から見ればたくさんの人の出来事のうちの1つなんだなぁ、と感じる。
早速病室へ行く。本館の五階。病棟は・・・、思ったよりも古い。薄黄色味がかった古い蛍光灯の照明やシミの見える天井。まるで男子便所にあるような落書きの跡が見られたのには驚いた。いかにも入院生活が始まるんだな、と思わせる雰囲気である。
入院案内が済み、気分転換に早速売店へ。駅のキオスク程度の品揃えだが、替えの下着や洗面用具などが充実している。それは当然の事なのだろうが、そんなことを気にするあたりが元・コンビニの発注担当の性か。特に何か欲しい物があったわけでもないが、何となく冷たいペットボトルのウーロン茶を買う。
入院病室は6人部屋。数日のことならさておき、2週間(予定)の入院で毎日差額が数千円~1万円もかかるとなると、安いのを選んでしまう。部屋の入り口を入ってすぐ右側のベットだった。壁に洗面台がついているのは便利なのだが、部屋で共通使用なのでちょっと気を遣ってしまいそう。まぁ、慣れればかえって他の人とも話す機会ができていいかもしれない。入院前からパソコンの持ち込みを行おうと考えていたが、無事に使用を許可された。通信に関しては、「携帯電話の使用はだめ」と書いてあるが、PHS利用やネットについては何も言及が無い。元々医療用携帯電話はPHSであるし、ここは少し後ろめたいがこそっとAirH”を使うことにする。定額プランでなく従量プランなので、メールはまとめて送信したり、こまめに接続を切ったりする。ダイヤルアップの時代が懐かしい。早速メールにて足りない物を家に連絡、妹に持ってきてもらう。TVは、カード精算式のが備え付けてはあるが、アンテナケーブルをこっそりノートPCにつなぎ替え、ノートPCにて観ることにする。うーむ、不届きな患者だ。そういえば病院と一括して契約しているケーブルテレビ(?)会社の、NHKへの受信料支払い拒否はどうなったのだろうか。自宅もNHKへは一括して受信料を払っているわけで、もしここでNHKへの受信料込みのお金を払ったら確かに二重払いになってしまう。
16時前、主治医より現在の状況の説明を受ける。外来で受けていた話や、以前の記事で紹介したHPで得た情報と一致。明日は体勢を変えたレントゲンや髄液採取、造影剤を入れてCTの撮影を行う模様。そして明日の17時頃に手術前の最終確認の説明を聞くことになる。妻と母あたりが立ち会って聞くことになると思う。

入院一日目 追加<2005.3.23.記>
”動物のお医者さん”で有名な佐々木倫子さんの描いたマンガで、”おたんこナース”というのがある。新米看護婦の仕事を通じて病棟のドラマ(?)を描いた作品である。実際に入院してみて、「あ、本当にそういう世界なんだ」と入院一日目にして感じた。
「助けてぇ~」という声がいきなり聞こえ驚いて廊下を見てみると、看護士に囲まれた車いすの年老いた方がいた。どうやら勝手に動いたり暴れたり(?)しそうになったのをなだめられて押さえられているらしいのだが、落ち着かせようとすればするほど「やめてくださ~い」「助けてぇ~」となるらしい。
自分の方であるが、薬剤担当の医師(?、看護士?)やリハビリ担当などから色々な説明を受けた。きちんと説明してくれるのはとても安心できる。また外来で担当だった医師も見えた。ちょっとホッとする。異口同音に「風邪はひかないでください」と言われた。なるほど、手術が遅れると以降の色々な予定がずれていくらしい。またリハビリ担当の言った、「手術に関連して動かせなくなることで筋力が落ちるのは仕方ないが、動かせるところはできるだけ動かしておきましょう。(手術関連以外の)筋力が落ちるのはもったいない。」というのが印象的であった。もっとも手術前の今の状態では、逆にずっとベットにいる方が体がなまってくるし時間をもてあましてしまう。先ほどから万歩計をつけてはかってみたら、今の段階で3600歩。普段学校へ行っているときは一日で15000歩は悠に行くので、意識的に動かさなくてはならないと実感。体を動かすのが割と億劫になる僕にしては珍しいかもしれない。

2005.3.24.入院生活二日目朝<2005.3.24.記>

朝はいつもと同じ五時半頃に目が覚める。眠っていたときには全然気がつかなかったが、時折ナースステーションで呼び出し音がなっている。起床時間は六時だが、もう既に起きていて廊下に居る方も数名見かける。入院している病棟は整形外科になるので、足や腕等にギプスをし、車いすに乗っていたり、歩行補助具につかまりながら歩いている方が多い。しばらくすると男性看護士が来て、「今日は検査の関係で朝食以後、水分や食べ物はお控えください」と伝える。朝食はよく噛んでしっかり食べようと思う。

2005.3.24.入院生活二日目夜(修正)<2005.3.24.記>
今日は脊髄造影のレントゲンとCTを行った。朝食後、禁飲食で午後から検査であった。横になった状態で背中を出し、腰のあたりに局所麻酔。この注射が痛かった。次に脊髄に注射をし、髄液を抜いたり造影剤を入れたりしたが、こちらはあまり感じなかった。この注射に当たっては、腰全般をエタノール?か何かで前面を消毒。色々さわられて少しくすぐったい。いよいよレントゲン撮影だが、ふと横を見ると動画が写っている。おそらく微弱なX線を放射しつつ、それを受像したのを連続的に再生しているのだろう。それで姿勢が固まったら撮影を行う。腰のあたりから脊髄に造影剤を入れたため、上に造影剤が回るのを待つ。どうするのかと思っていたら、横になっている台が頭が下になるように傾いた。ずり落ちないように台の横についている手すりにつかまった。数分して動画レントゲン(勝手に銘々)で見てみるが、腫瘍部分より上に造影剤がなかなかいかない模様。腰をゆすったり、さらに10分ほど置いてまた撮影。でもあまり上にいかなかった。腫瘍がかなり大きく、通せんぼしているのだろうか。次にCT。原理は・・・MRIとの区別がつかない。退院したら調べようと思う。機械自体は、MRIが体全体のはいる筒のようなものだとすると、CTは体のとおる輪っかのようなものだった。とおる部分で、体を取り巻くように何かがぐるぐる回っている。受信センサーだろうか。またその周辺がひんやりしている。強い地場を作るのに超伝導状態のコイルが必要になるための液体窒素の冷気だろうか。あれ、それはMRIの話だったか?? やはり勉強が必要だ。そういえば脊髄造影検査中より点滴の管がついたままになった。点滴が一パック終わったあと、針とジョイントの管だけつけたままにし、編み目の大きな伸縮包帯でカバー。これから何回も点滴を行うのには、その都度抜き差しするより便利だ。
17時前、見舞いと手術の説明を聞きに妻と母がくる。妻が、幅10cmほどの細長いゴム製の筋力を鍛えるものを持ってきた。ベッド上の生活、確かに体がなまりそうとは思うものの、いくら何でも筋トレグッズは無理だろう。おそらく手術後は、ベッド上で満足に動くこともできないに違いない。家であまりに体を動かさないから、ここを先途と考えたのだろうか。病室にノートパソコンを持ち込む患者も比較的少ないだろうが、見舞いの品にストレッチャー(筋トレ)を持ってくるのも珍しい・・・と思ったが、リハビリ科があるくらいだから案外あるものなのかもしれない。ううむ、侮り難し。
そうこうするうち、外来の時から診察していただいている先生より明日の手術について詳細な説明。現状は、上から二つ目の腰椎付近に3~5cmほどの腫瘍がある状態で、腫瘍が他の神経を圧迫しており、一番大きくなっているところでは、脊髄の通っている部分の断面の7割程度が腫瘍に占領されており、他の神経が隅に追いやられている状態であるらしい。先ほど撮影したCT画像などを見ながら説明された。腫瘍がなぜできてしまうかは、そのきっかけなどはよくわかっていないらしい。ネットなどで調べてみると、この馬尾神経腫瘍は10万人に1人程度の頻度であるとのこと。つまり東京都で約100人、日本全体で約1200人ということか。多いのか少ないのかよくわからない。先生の話によると、MRIの普及により馬尾神経腫瘍も多く見つかるようになったそうだ。10年前は何ヶ月も予約して撮影するような機械だったらしい。レントゲンでは腫瘍は全く写らないため、僕も最初は「椎間板ヘルニア気味なのでしょう」で済まされていた。他の方も、同じような診断を受けたものの、どうも様子がおかしくMRIで発見というパターンが多いようである。しかしこの腫瘍による痛みはいつもあるのでなく、そのときの体調に左右される面も多い。僕の場合は、天気が悪くなると痛みが強かった気がする。普通の時には、けろっと痛みがないことすらあった。そんな症状から、昔は足の痛みはヒステリーの一種だと考えられてしまい、本人は濡れ衣を着せられていたこともあったそうである。この外来の先生は非常にわかりやすい説明の仕方をしてくれる。実は検査の時、病棟の看護士が検査を行うレントゲン室等までストレッチャー(患者を寝せたまま運ぶベット)を使って僕を運んだが、手続きに必要な何か書類が必要だの必要でないの、頭に帽子をかぶるのかぶらないのといった話を放射線科の技師と話をしていた。その様子で、「おいおい、連携がそんなにあやふやで大丈夫なのか?」と少し疑念を持った。ご存じのように、数日に一回くらいは医療ミスのニュースが出る時代。手術でそんなことがあるととんでもない、と内心は思っていた。しかし外来の時からの先生のきちんとした説明を聞くと、不安が和らいでいく。また今日は、麻酔科、リハビリ、コルセット作成の人などが相次いで来て、説明や測定を行っていった。21時より手術のため、また禁飲食。いよいよ明日だ。早めに寝よう。

2005.3.25.入院生活三日目朝、いよいよ手術<2005.3.25.記>

いよいよこの日が来た。起床6時より手術前最後となるメールやらこの書き込みやらを行い、手術に備える(それは備えか?)。あと8時くらいまでにはトイレと着替えを済ませておく(こういうのを普通は備えと言うのだろう)。着替えは、昨日の検査の時もそうであったのが、T字帯と検査着になる。T字帯とは何だか初め分からなかったのだが、要は木綿?でできた白いふんどしである。何だか恥ずかしい。
実は今日は、勤務先の学校の吹奏楽部の3年生最後のスプリングコンサートの日である。元々、色々な生演奏を聴くのが好きで、毎年楽しみにしていた。音楽はもちろん、演奏をしている人を見るのが好きなのだろうか。特に今年は、3年間面倒を見てきた子たちの最後の晴れ舞台なのでとても見たかったが、とても残念である。

いよいよ手術室へ<2005.3.25.記>
いよいよ手術へ向かう。昨日の検査と同じでストレッチャーに乗せられて行く・・・のかと思っていたら、空のストレッチャーを押す看護士さんの脇を普通に(ただしオペ着を着て)歩いて手術室へ。着いてまず驚いた。さすが大学病院で、入り口に中央手術室と書いてある。それまで手術を行う部屋というと、入り口をあけたら、そのまま一直線に(一つの)手術室があると漠然と思っていた(もちろん、部屋を滅菌したり外気との出入りは特別な仕掛けがあるだろうとは考えていたが)。ところが中央手術室。恭一日でもこんなに手術があるのかと、改めて感じる。部屋に入ると横に細長い部屋になっていた。全体的には白を基調としているが、ステンレスの部分も多く、雰囲気としては(見たことは無いが)食肉工場のよう。これから手術だからなおさらそう思うのだろうか。この部屋を板チョコに例えてみる(文章力不足のため、例えないと説明できない。また他のものに例えたいが思いつかない。別に格別にチョコが好きなわけでも特別な?思い出があるわけでもない)。長い辺を自分の手前にしておいたとすると、右手前側に外への出入口があり、右の短い辺には上半分ガラスの受付がある。奥ではバタバタとうす緑がかった看護士?が何名も出入りしている。時折そこから呼ばれ、病棟から一緒に来ている看護士が受付し、手術に向かうらしい。部屋の短辺左を見ると、「ペインクリニック」と書かれてカーテンをした部屋がある。そして部屋の長辺右奥が手術を行うところにつながっているらしい。部屋の真ん中は患者を運んできたストレッチャー7,8台並んでいる。これから手術を行う人は、寝たままでここで待つのだが、僕と同じように歩いて来る人も何名かおり、出入口横の待合い椅子に3名ほど座っていた(あれ、あまりチョコに例えた効果がなかった?)。いよいよ自分の番である。手術室への入り口は立って入るのでなく、横向きについていた。ストレッチャーとほぼ同じ高さのところで横に開いており、頭をぶつけないように気をつけながら手術室へ向かう新しいストレッチャーに乗り移る。さて、これでいよいよか・・・と思ったら、長い。長い廊下が続いている。第○手術室とかかれた部屋をいくつもとおった。しかしとおっている見た感じ、ちょっと薄暗めの普通の廊下。ここも滅菌されているのか? ただストレッチャーに横に寝かされて天井を見ての移動なので、下側には特別な仕掛けがあるのかもしれない・・・などと考えていたら、自分の手術室についた。第七手術室、ラッキーセブンだ・・・などと考える余裕もなく、好奇心5割・・・、いや、不安感を振り払うため無理矢理好奇心を沸き立たせ、好奇心8割でもって手術室へ入る。麻酔が効き始めたらすぐに意識はなくなると聞くし、術中は大丈夫だと自分に言い聞かせた。手術室内は少し肌寒かった。全体がエメラルドグリーンを淡くしたような色で、天井からは、いかにもこれから手術するといわんばかりの丸く大きなおぼん状の照明がついている。丸い時計がついていて、時間が9時前をさしていた。これから麻酔しますよと言われ、新しい点滴を入れ始めた。1,2秒して周りの景色がにじんできたなぁ、と思ったところで記憶がとぎれた。

手術終了後、その1<2005.3.25.記>
手術が終わった。「終わりましたよ」という旨の言葉をかけられた。麻酔から覚めた直後はもっとぼんやりした状態なのだと思っていたが、割とはっきりとした目覚めの気分。しかし時計を見ると午後の2時。終電に乗って座席でで5分ほど、うとうとしていたら車掌に肩たたかれて起こされたような感じがする。しかし5時間も経っていたとは。再度ストレッチャーに乗せられ、病室に戻っていく。すぐに自分の病室に行くのだと思っていたら、”リカバリ室”に一晩いることになる模様。”リカバリ室”という物々しい名前の部屋は、要は手術直後などで多くの支援が必要な患者が何名かいる回復室の事なのだが、なんだかパソコンの復元を思わせる名前だ。足には圧迫具をつけ血流をよくしているようだ。適度に締め付けることで血圧を高め、流速を上げるのだろう(多分)。それ以外にも足の先を交互に圧迫する道具がついている。スリッパを半分はいているような感じがするのだが、数十秒に一回ずつ交互に足を締め付ける。マッサージされているような気分。これらにより、いわゆるエコノミー症候群を防ぐらしい。確かに同じ姿勢を続けていることや手術による影響で血栓ができて脳にでも行ってしまったら大事(おおごと)である。ふと気がつくと、尿道に尿を出す管(カテーテル)が入れてあった。とりつけ状態を確認するため看護婦が調べるが、思ったほど恥ずかしくなかった。局部と、それをさわっている看護婦の手や顔が見えないからか(しかし実はちょっと好みの顔の看護婦だったときはうろたえた)。手術後の姿勢であるが、背中を手術したのだから、しばらくうつぶせで過ごすのかと思っていたら、仰向けである。手術のやり方により異なるらしい。今の段階では、背中と腰の中間あたりが押されているようなじんわりとした痛み。足は両方ともしびれている。手術時の麻酔によるものだろうか。やや左の方がしびれが大きい。ただ足の指や足全体は動かせるのにホッとする。手術前の説明でもあったように、腫瘍化した神経が支配している筋肉の動きなり感覚なりがダメになるのはもちろんのこと、腫瘍をはがすにあたって近隣の神経へも多少なりとも影響があるからだ。最悪、下半身不随になることも覚悟はしていた。しかし痛みがあるのはいやな物だ。サイバーSFコミック(?)で、木城ゆきと著の”銃夢(ガンム)”というのがある。その中で、血液中を流れる分子ロボットで、自己修復ロボットというのが出てくる。分子ロボットを持つ人間の組織が傷つくと、自動的に修復してくれる。今回手術で傷ついた組織を、その修復ロボットですぐに直してもらいたい気分である(そうすれば痛みもすぐになくなり元通り)。同じようなネタで、自分の体に蟲を住まわせ、自分の体が戦闘で傷ついても復活するという”蟲使い”の話はよく出てくる。でも分子ロボットはいいけど、何だか蟲に修復してもらうのは何となく抵抗がある・・・などとくだらない空想にふける。しかし分子ロボットや蟲がいなくても、(時間がしばしかかると言え)切った組織が修復するのは何とすばらしい働きだろうか。改めて生物の働きのすばらしさを実感する。
下の妹が見舞いに来た。勤務先へ、無事手術が終わった旨の連絡をお願いした。学期末の忙しい中、色々な仕事を途中で任せて来てしまい、またたくさんの心配をおかけしているのが気になる。しばらくして入れ替わるように上の妹が来た。そこで病室に置いたままにしてあったSIGMARION(キーボード付きのPDA。WindowsCE)を持ってきてもらう。これでこの入院日記を書いたりと時間つぶしができる。前述の中央手術室の話は、このリカバリ室で記録した物である。時間が経つ事で詳細な内容を忘れないようにするためにも役に立った。しかし400g位?(詳細は今は不明)と軽いとはいえ、上に持ち上げたまま仰向けでキーボードを打つのは腕がつかれる。筋トレになるかもしれない。しかし手術を終えて1時間もしないうちにリカバリ室でこんな事を行う患者も少ないだろうと思うのだが、看護婦がキーボード打っている姿見ても何もいわないから、案外よくある光景なのかもしれない。

手術終了後、その2<2005.3.25.記>
術後、麻酔による影響か、非常にのどが渇く。体全体としてみれば、点滴で水分補給をしているので足りているのではあろうが、のどの粘膜が非常に乾いている感じがする。しかし今の状態は酸素吸入を行っている状態であるし、また腸の動きも止まっているらしい。腸の動きは、聴診器を何カ所かに当てて音を聞くことで確認している。盲腸などの手術の後、おなら(看護婦は”ガス”という言い方をしていた)が出たら教えてくださいね、と言われた人も多いだろう。今まで、てっきり腸管がしっかりつながっていることの確認でおならなのかと思っていたら、(それもあるのかもしれないが)腸の運動の確認の意味であったらしい。今回の僕の手術では、消化器は全くいじっていない。それなのに腸の運動を確認するのは、おそらく消化器の運動も麻酔により止まってしまうからなのだろう。
しばらくし、手術を行った医師が来て説明をする。腫瘍は良性だったそうである。ホッとする。切除した腫瘍を見られるのかと尋ねたが、病理に全部出してしまったのでないとここと(手術中、切除した腫瘍の細胞を顕微鏡などで調べ、悪性か良性か判断する。そういった検査を病理部門で行った)。残念。術前からもっと”見たい”とアピールしておけばよかったのかもしれない。腫瘍は、髄内で髄液に浸った状態と取り出してからで大きさが少し違うらしいが、おおよそ数cmだったらしい。感じとしてはゼリー状の物だったようだ。かなりの大きさだったらしく、元々は一本の細い神経が膨らんでできていたものの、他の神経にもべちゃっとくっついていて、それを一つ一つ手術用の顕微鏡下ではがしていく作業に時間がかかった模様。手術とは、患者にしてみれば成功してもらうのが当たり前でも、実際に行うのはとても大変な仕事なのだと思う。腫瘍はほとんど取ることができたそうだが、完全に全部取ろうとすると他の神経を痛めてしまうおそれがあるため、腫瘍の薄皮一枚くらいは残った物もあるらしい。それがまた増殖し、腫瘍となるかどうかはその後の経過を見ないとわからないそうである。数年間は、年に一回程度MRIの撮影を行うとのこと。何となくすっきりしない気がしないでもないが、それでもまずは腫瘍が無事取れたことにホッとし、うれしく思う。
しかしのどがすごく渇く。酸素吸入も、水を通しているので湿度はあるのだろうが我慢できないくらいの状態である。またお腹もすいてきた。術後はもっとしおれた状態になるのかと思っていたら、ずいぶんと元気な感じがする。また足のしびれが少し強くなってきた気がする。手術の麻酔がどんどんと抜けてきているせいかもしれない。
ふと気がつくと、水分補給の?点滴が無くなっている。今では不安も何も無いが、初めて点滴を行ったときは色々恐かった。血管に空気が入ると死ぬというイメージが強く、ちょっとした空気が点滴のチューブ内に入っていただけて人を呼び、また点滴が無くなると空気がそのまま入っていってしまう気がしてまた呼んだ。実際のところ、ごく小さな気泡は無視しても良いらしく、また点滴が無くなってもそのままにしておいてかまわない。チューブの所々に色々な仕掛けがあり、手間無く、しかもコストも安くなるようにできている。さらに驚いたのは、腕に刺してある針から5cmほどのところがT字になっており、さらにコック(弁)がついている。一本の点滴だけでなく二つの点滴を一緒に行ったり、片方の点滴が無くなっても一つだけ継続したりできるようになっている。点滴が必要なければ、腕に針とコックだけ残してはずしてしまえばよく、再度点滴するときにはコックに点滴のチューブをはめるだけでよくなっている。よく考えた物である。そういえばこれを理科の気体の実験に使っている人がいた。二つの気体を混合し、できあがったものを空の点滴バックに入れ、質量をはかったりする。コックがついているので気体が漏れることもなく、少々においや毒性のある気体だったとしても簡便に扱える。できあがったそういう仕掛けを使うのは簡単だが、開発した人はすごいと思う。

手術終了後、その3<2005.3.25.記>
ふとカーテン越しのベッドで「おいしい?」という看護婦の声が聞こえる。気がつくと17時を回っていた。まだお腹の動きの音が弱いらしく、水分を取っていない・・・いや、点滴はしているので、水を一滴も飲んでいない身としてはとてもうらやましく聞こえる。しばらくしたところ、ボンベの酸素が無くなったので吸入をはずすとのこと。てっきり無菌に近い状態にしたりするため、しばらく吸入装置をつけたままだと思っていたので拍子抜けのような気がする。体温を測ると少し熱が出て、37.6度。氷枕を使うことになる。
しかし看護士の動きを見ているといろいろな仕事があるのだと思う。このリカバリ室に来てから、検温が1~2時間に一度ある。毎回同じ人というわけでないため、名前をなかなか覚えられないくらいである。それ以外にも、血圧や脈拍測定、点滴に食事介助、排尿等処理。医師への連絡に個別のナースコール対応。ばたばたと走り回っている感じである。学校での勤務中、教員は仕事には集中しにくいと思っていた。授業で使うプリントをつくろうにもすぐに生徒が呼んでいると連絡が来たり、誰と誰がヘンだから様子を見に行かなくては行けないとか部活動を見に行かなくてはならない、そして会議、担任としての事務処理等々。しかし看護士の仕事はそれ以上に緊急のことが頻繁に入りつつ、日常的な仕事もしなくては行けないのだと感じる。
19時頃、ようやくおなかの音を確認し、水を少し舐められる。ほんの少しであったがとてもありがたい。点滴も気がついたら新しいものへ。全体的な痛みで全然気がつかなかったが、どうやら背中にドレン(ホース)がついているらしい。手術で切り開いた筋肉層の中まで細いホースが入っていて、膿や余分な出血を外に出せるようになっているようである。そこから逆に雑菌が入ったりは・・・しないようにはなっているのだろう。
尿意を催し、少し外へ出そうとするとカテーテルの横から漏れてくる。看護婦に伝え、様子を見てもらう。すると尿をためる容器でチャプチャプ音が。わざわざ力んで出さなくても、カテーテルがぼうこうまで入っているので自然に出てくるそうである。便利なのだが・・・不思議な気分である。
夕飯は重湯ととき玉汁(豆腐入り)?、イチゴミルクセーキ、リンゴジュースだった。どれも寝たまま横に向き、ストローで飲む。いつものくせで一気に食べてしまいたいが、どうもおなか(消化器)が重く、動いていない感じがする。ここはゆっくりと味わって?食べることにする。食事の合間にSigmarionで文章を打つ。一旦テキスト文章として保存したものを、病室に持ち込んだLet’sNOTE(ノートパソコン)に移し、そしてAir”Hでネットにつないだ時に一気にアップする予定である。食事を終えたらコーヒーが無性に飲みたくなる。しかし看護婦に言うのもはばかられ、我慢。
氷枕を一旦ははずすが、その後の検温で37.8度。手術後は熱が出ることが多いらしい。体の自然な防衛反応なのだろうか。また氷枕を使い、熱を下げることになった。今度は両脇にも凍った冷剤(飲むゼリーのパックを凍らしたような物)をはさむ。体が一気に冷やされた感じがする。しかし自然な防御反応で化膿防止(外から入ってきた細菌の増殖防止)のため体温が上昇しているのなら、むしろ体温は少しあがっていた方がいいのではないのだろうか。看護婦に質問してみたいが、手術を終えたばかりの患者の聞くことでないような気がして断念。足のしびれはかなり収まり、右はほとんどなく平常の感じになってきた。しかし左足は、慣れない人が長時間正座をした後のようなしびれがとれない。ふくらはぎから下全体にかけてである。右足が治った分か、さっきよりしびれているような気もするくらいである。20時過ぎ、急に背中の痛みが強くなる。手術で使った麻酔がここいらで完全に切れたのだろうか。先ほどまでは頭も完全に冴えていたが、すこし熱のせいかぼんやりした感じがする。
この夜は非常に長かった。背中の痛みと左足のしびれが気になって寝られない。それだけでない。同じくリカバリ室にいるお年寄りが、ふと目覚めては「痛い」「(ベッドから)起こして」「○○ちゃん(自分の知人か何かの事か?)」を呼ぶのだが、どうやら少し痴呆気味であるらしく、支離滅裂なことを言ったりもする。看護士は、もちろん夜中の見回りにくるのだが、そのお年寄りの訴えにはあまり対応していないようである。また後日書くことにしたいが、自分の祖父が最後に入院した時の事を思い出し、涙が出そうになる。
いずれにしてもそのような声が一晩中聞こえ、痛みがあり、一番長い夜になった。昨日たくさん寝ておいてよかった。

2005.3.26.入院生活四日目<2005.3.26.記>

結局、10分くらい眠ったのを何回か繰り返していたら朝になった。それでもあまり辛くないのは、手術前日にたくさん眠っておいたおかげか。朝食は7時40分頃。おなかが少し痛くてあまり食欲がない。昨日の手術後の方が体調がよい感じがする。30度ほどにベットを起こすが、とても背中が痛い。朝食後、尿道につながったカテーテルをはずす。はずす時、想像通りの引っ張られるような痛みがある。異物感が無くなるのはうれしいが、こんなに背中が痛むようできちんと尿器(しびん)を使えるのだろうか。朝食後ベットを45度まで起こす。少し痛いが、何とか耐えられる。
11時頃、リカバリ室から元の病室へ戻る。それがなぜかとてもうれしい。戻ったところで、今まで書き溜めたものをブログへアップする。ベッドを55度くらいまで起こした。昼食からは普通の食事に戻った。病室は、一日目にも書いたとおり六人部屋に入ったすぐ右のところ。共用の洗面台があることもあり、なかなか尿器を使いにくい。
15時頃、妻が見舞いに来た。お湯を汲んできてもらい、久しぶりにコーヒーを飲む。家にいたときは、まずくて全然飲んでいなかったインスタントであるが、非常においしく感じる。化膿止めの点滴を行った。今までに昨日2回、今日は一回目。手術したところの化膿が起こると非常にやっかいな事になるのは容易に想像がつく。
あと心配されていたことが髄液の漏れである。脳と脊髄は、それぞれ別の物のように考えている方も多いかもしれない。形態的には、頭にあるのと背骨にあるのは違うような感じがする。しかし脊髄は、脳の一端が突き出た物と考えた方がいいらしい。脳は髄液で満たされているが、脊髄にも同じように髄液で満たされている。その液体の中に、脊髄、そしてそれにつながる馬尾神経は浮いている(というか、守られている)状態になっている。今回の手術では、髄液という水の入っている袋を開き、中の神経にくっついている腫瘍をはがし、そしてまたその水の袋を縫い合わせる事を行ったわけである。手術中、当然ある程度の髄液は失われている。そのため昨日一日は枕もせずに完全に水平状態で、必要以上に髄液が流出するのを防いでいた。今日ベッドの角度を上げるのも、その都度(髄液が手術部位から外へ流れ出てしまって)頭がいたくないか確認を行った。しかも髄液が漏れると化膿も起こりやすくなるらしい。場合によっては漏れを防ぐための再手術も行う事があるらしい。くわばらくわばら。
さらに今回、背骨を取ってまたはめると言うことも行っている。背骨は背中側に出っ張りがあるが、腰骨の上から2番目の出っ張りを両側から切って取り外し、腫瘍を取った後またはめた状態になっている。もちろんただはめただけではずれてしまうので、時間が経つと体と同化する(溶ける?)ような材質でできたくさびみたいなもので止めたらしい。それでも無理な力がかからないよう、コルセットも注文した(書き忘れていたが採寸は手術前日に行った)。
17時過ぎに夕飯。ベッドを60度くらいまで起こした。動ける範囲が広がっていくのがわかる。目に見えて回復しているようでとてもうれしい。髄液の漏れも何とか大丈夫そうだ。あれこれ動いてみた結果、背骨を前後に動かすと激痛が走るが、比較的横へ動かすのは大丈夫である。ベッド上で横を向いたままずりずり動く。「今日が痛みのピークですよ、これを乗り切れば楽になりますよ」との医師の言葉が励みになった。

2005.3.27.入院生活五日目。回復順調!<2005.3.27.記>

昨日の夜はよく眠れた。朝の目覚めもすがすがしい。その前の夜が一番長かったと思う(この後も含め)。今はまだ6時前だが、化膿止めの点滴を行う。小一時間かかるだろう。パソコンでテレビをみる。7時過ぎ、朝食を食べるためベッドを起こしてもらう。起きる姿勢も大分楽になった。朝食後、横を向きながら足を下におろし、ベッド横に腰掛ける形で起きあがる。手の支えなどが必要だが、何とか角度80度くらいまで(背がどこにもつかず)起きられる。昨日できなかった事ができるのがかなりうれしい。しかし背中から腰にかけて痛み。切った部分の痛みか、それとも使っていなかった筋肉を急に使った筋肉痛か。しかし今日は回復がめざましい。10時過ぎ、ベッド横に完全に普通に腰掛け、スリッパを履き、足を地面についた。立つのはまだ痛みがあって恐くて立てない。でも車いすを使うより、歩行補助具を使って歩く方が楽そうな気がする。やってみたい衝動にも駆られるが、もし万が一髄液が漏れたりしたら一大事。「今はまだベッド上での安静が大切ですよ」との看護士の言葉がまた念を押す。
11時半頃、看護士が来て頭を洗いましょうかという。是非ともお願いしたい。どのようにして洗うのかと思っていると、がらがらと手押し車のような洗髪台というのを持ってくる。ステンレス製で小さな手洗い台とシャワーのような物がついている。コンセントをつないだところをみると、ポンプとお湯を沸かすのに使うのだろう。かなりさっぱりした気分である。昼食後、背中についていたドレンをはずす。ドレンの先を見ると、今までに出てきた血液や、血漿のような透明な液体がたまっていた。今までこのドレンが背中についていたため、ベッドにつながれているような気持ちであった。取るときに少し引きつるような痛みがあったが、取った後は解放された気分である。

このケースであるが、ふくらんだ風船の入った箱と吸い出された箱の二つからできている。この風船が、ドレンの先の液体を吸う役割を果たしているとのこと。たくさん膨らませばそれだけ陰圧に(つまり吸う力が強く)なるのである。単にホース式に重力任せだと、ふとした時に逆流したりする事もあるだろう。そうするとそこから患部に雑菌が入る可能性もある。そうならないための工夫を発見し、何だかおもしろい。

やはり左足が!<2005.3.27.記>
午後、両親と妹、それと叔母が見舞いに来る。心配をかけているのは申し訳ないが、何だかうれしく思う。
たまたま自分の入院しているところがそうなのかもしれないが、本当に入れ替わり立ち替わり色々な看護婦・看護士がくる(男女差別のつもりは毛頭無いが、そのように言葉を使わせていただきたい)。顔は何名かは覚えたものの、それ以外は”あれ、この人は前にも来た・・・かな?”という感じである。看護婦のナースキャップ、よく見ると後ろのでっぱった部分にピンパッチのようなものがついている。ハートマークだったりディズニーだったりリボンだったりと一人一人違う。決まった服での唯一のアクセサリなのかもしれない。名前は見ても忘れてしまうが、こちらで区別するのは覚えやすそうだ。他の病院でもそうなのだろうか。
夕食後、勝手なリハビリでベッドサイドでつかまり立ちをしてみる。するとうまく立てない! しびれのある左足が、力は入るのだが加減がよくできない、というかブルブルすると言うか。今まで順調に進んできていた感があったので少しショックである。色々さわってみると、左足はふくらはぎの外側やかかと付近にほとんど感覚がない。これが収まって行くものなのか、それとも後遺症として残る物なのか、様子を見極める必要がある。ショックはショックだが、明日になればまた少し良くなるだろう。

車いす、初体験<2005.3.27.記>
21時前、トイレに行きたくなる。看護士に言ったところ、「では車いすに乗ってみましょう」 初めての体験である。思ったように動く・・・ところまでは行かないが、2日間自分では動けない生活だった身にとって、思ったところへ動けるのは実に爽快である。足の具合、やはり右足でのケンケン状態が無難のようだ。左足が動き方を忘れたような感じである。ゆっくりリハビリしていこう。

2005.3.28.入院生活六日目<2005.3.28.記>

朝4時半頃目が覚める。消灯時間が21時でしばらくすると寝る生活。入院前は23時頃に寝て5時半頃に目が覚める生活だったので、格段に早く目が覚めたわけでもないだろう。よく眠れた。5時半頃、採血。昨日の点滴もこの位の時間から行っていた。なぜこんなに早い時間に行うのだろうか。看護士の仕事のすいている時間だからだろうか。その後、完全に平らなベッドで座る姿勢になってみる。背中が突っ張って痛い感じがあるが、何とか起きあがれた。昨日はできなかったことがまた一つできるようになった。車いすに乗り換え、トイレへ行く。尿器などでなく、自分で用を足せるのがこんなにうれしいとは。乗ったついでにフロアを一周。およそ200mほど?だろうか。しかし腕だけで動くのはかなり疲れる。腕力がつきそうである。ふらふらしていたところ、看護婦から「あれ、河野さん、お通じの時以外も車いすは大丈夫って言われました?」と声をかけられる。そういえばそうだった。少しおとなしくしよう。のどが渇いたので、インスタントコーヒーにお湯を入れに行くのだけ、許可してもらう。お湯を汲んだはいいのだが、そうすると片手が埋まってしまった。残った片手でまっすぐ進むのが難しい。ジグザグ走行になってしまう。病室に戻るのにはずいぶんと時間がかかった。乗ってみないとわからない実感だ。

少しずつ日常へ<2005.3.28.記>

朝食後、点滴用に刺していた管をはずす。化膿止めの点滴も昨日で終わりだそうだ。また一つ解放された気分。そういえば点滴が終わった後、透明の液体を毎回流し込んでいた(写真)。
てっきり消毒か何かかと思っていたのだが、聞くと「針やチューブの中で血液が固まってしまうのを防ぐ物」だそうである。”ヘパリンNaロック”と書いてあり、よく見ると”ブタ小腸粘膜”とも書いてある。どのようなものか興味がわくが、これも退院したら調べてみようと思う。
「コルセットが木曜日にできますから、それまではお通じの時 だけ 車いすに乗ってみてくださいね。」と看護婦に念を押される。ううむ。少し様子見ながら動くことにしよう。病室の洗面台で歯を磨き、ぬらしたタオルで顔を拭く。手術後、自分で行うのは初めてである(歯磨きはそもそも久しぶり)。とても気持ちがよい。いろいろなところにつかまり立ちしながらいすに座っての作業となったが、また一歩日常に戻りつつある事を実感。

見舞客<2005.3.28.記>
なにやらたくさん医師が来た、と思ったら、教授回診だ。主治医が症状を簡単に伝え、「そうだね、しっかりやってね」程度のことを言い、次の患者へと移る。大学病院であることを改めて思い起こす。
昼食後、新しい痛み止めの薬を渡される。今まで飲んでいたロキソニンに加え、ノイロトロピンを飲むことになる。現状では、背中が突っ張るような動きをしない限り痛みは気にならないので、なぜ今追加されたのだろう。次に医師が来たときに聞いてみることにする。
16時前、リハビリ担当の方が来る。今までは挨拶程度の話しかしなかったが、少しだけベッド上で筋肉を動かしてみる事を行ってもらった。足首から先を曲げてまっすぐにする事と、膝の下に枕などを置き、下向きに力を入れる運動を行ってくださいとのこと。コルセットが出来るまではやはりベッド上からあまり動いてはいけないらしいが、出来たらすぐに本格的にリハビリできるよう言われた運動をしっかりやろう。午前中、せっかく車いすの乗れて動けていたのに「トイレの時だけ」と釘を刺され意気消沈していたが、また少し明るく思えてきた。
その後友人や妻が見舞いに来る。動けない身にとって、たわいのない雑談が非常にありがたい。今まで、何にもしなくていい時間が欲しいと思っていた。しかしそれは、何もしなくていい時間を選択することできるのがいいのであって、それが強制になるのはとても辛い物である。気を紛らわせるのにも、見舞客というのはありがたいものだとしみじみと感じた。

2005.3.29.入院生活七日目<2005.3.29.記>

昨晩は21時半過ぎに就寝し、午前5時頃、起床。お茶を飲み、車いすでトイレに行き、朝食まで病室でニュースなどを見る。このリズムが身に付きつつある。手術で切った部分の背中の痛みも、切った痛みから突っ張るような痛みに変わってきて、体をねじる姿勢も少しずつできるようになってきた。左足の感覚も、全体的なしびれは無くなってきて、大分落ち着きつつある。逆さにしたボールペンでさわって感覚を調べてみた。右足はどこも異常は感じない。左足は、太もも付近はほぼ正常。外側から後のふくらはぎ付近がまったく感覚がない。内側のふくらはぎは比較的普通に近い感じである。足首から先は、全体的に突っ張った感じがする。やはり外側がにぶく、内側の方がさわった感じがはっきりしている。動きに関しては、ふくらはぎより下が全体的に突っ張った感じで動かすのに違和感を感じるが、動かないところは無いようである。手術で切除した腫瘍だが、正式には硬膜内髄外腫瘍、というらしい。馬尾神経に出来たものでも、何が由来でできた腫瘍なのかがその後に影響をするようだ。これも退院したら調べてみたい。

難しい注文<2005.3.29.記>
朝食後、カーテンを閉めてこっそり立ってみる。立つことはできた。しかし左足が突っ張り、まるで杖になったような感じである。力は入るが、立った感覚がしっくりこない。歩くのはおそらく無理であろう。しばらくして医師が来る。しびれや痛みの有無を確認。普通にしている限りでは、しびれや痛みはもうほとんどない。「(コルセットができるまで)焦ってもいいことないから、今のままいきましょう」と言われる。一番難しい注文かもしれない。

血圧計<2005.3.29.記>
午後、”あおぞら実験室”の見舞客が来る。花などをもらった。病室に花があるだけでほんのり香りもするし、うるおいがでた感じがする。自分も興味を持っている理科関連の話などもした。久しぶりに思う存分話した気分。
そういえばここ2日ほど、血圧を測る回数がめっきり減った。それまでは一日数回測っていたのだが、今は一日に一回くらいだろうか。色々な看護師が測るのだが、人により使っている血圧計が違っておもしろい。若い看護婦などは、デジタル式のを使っていることが多いような気がする。人によってはバイクのスピードメーターのような丸いアナログ式、またベテランのような方は昔ながらの水銀柱式の血圧計を使っている。
気がつくと入院生活も一週間。あとどのくらいで退院できるのだろうか。

2005.3.30入院生活八日目、テレビの録画<2005.3.30.記>

昨晩は久しぶりに録画しておきたいTV番組があった。NHKプロジェクトX「千年の秘技 たたら製鉄 復活への炎」である。たたら製鉄とは、砂鉄と木炭から、近代的な製鉄よりも純度の高い鉄を得る技術である。宮崎駿の「もののけ姫」で出てきた、といえば分かる方も多いだろうか。女たちが一斉にふいごを踏んでいる、あの場面である。酸素と鉄が結びついた酸化鉄の状態から、木炭を使って酸素をはがす還元の実例として、授業でもぜひ使いたかった。また、技術とは、昔の物より新しい方がすべての面で優れていると一般的には思われていると思う。しかし古くさかろうが非効率的だろうが、長い年月を経て来たものには知恵があるのだ。一旦失われてしまった技術は、そう簡単に復活させることはできない。このたたら製鉄も、最後の生き残りの方がいなければ、遙か昔の弥生時代からの技術であろうが、現代に復活できなかったのかもしれない。そういった技術に対する思いなども、是非とも生徒に見せたかった。昨日妻が見舞いに来たとき、録画をお願いしておけば良かったのだがうっかりしていた。非常手段で、Let’sNOTE(ノートパソコン)で録画することにする。TVチューナーカードと付属ソフトの機能として当然録画もできるのだが、リアルタイムでソフトウェアエンコードを行うにはややCPUのパフォーマンスに心配があり、また内蔵HDDでの録画なので駒落ちが予想される。外付けのHDDでもあればよいのだが・・・。録画を終え、再生してみる。やはり映像がなめらかではない部分がある。こういった時のために、もう少しスペックの高いパソコンが欲しい気もするが、こんな機会も頻繁にあるわけでもないだろう。また家にある外付けHDDを持ってきてもらっておけば、かなりよくなるかもしれない。いろいろと実験してみよう。

初対面<2005.3.30.記>
10時過ぎ、新たな医師が様子を尋ねてきた。足のしびれや痛みはほとんど無く、背中が突っ張ったときに軽く痛む程度と応える。初めて話する医師や看護師などが来て、「様子はどうですか」と聞くとき、少しとまどいを覚える。もちろん看護側では、色々な情報を共有して適切な処置を行っているのだろうが、診察される側としては、果たして今話をしている人は担当医師なのか看護師なのかがまったくわからない。せめて初めての時だけでも、「○○の担当の△△です。具合はいかがですか。」とできないのであろうか。今までにそのようにあいさつしてくれたのは、わずか1人だけであった。入院して部屋に閉じこもっていると、些細なことでも気にしすぎたり、腹が立ったりする。色々な刺激による発散が重要だと感じる。

イソジンの液体石けん<2005.3.30.記>
15時過ぎ、洗髪をしてもらう。今回は自分のベッドへ洗髪台を持ってきてもらうのでなく、車いすで洗髪台のある部屋へ移動して行った。ベッドの上から頭だけ出し、洗髪台の流しに頭を乗せる。流しはプラスチック製なので頭重をかけるのが不安で、力を加えて頭を少し持ち上げていた。しばらくして首が疲れてきて震えてきたのを見てか、「頭を持ち上げなくても大丈夫ですよ」といわれる。少しホッとする。世間話で仕事の話になった。自分が教員であるのはカルテか何かで皆、知っているようだ。理科教員だというと、「やっぱりそうですよね、国語か理科の先生だと思いました。」とのこと。いかにも理科、とはよくいわれるが、国語とは初めて言われた。そういえば若い看護婦は、全般的に何となく幼稚園の先生に近い雰囲気を感じる(悪い意味でない)。これは一般的な感想なのかどうか、機会があったら聞いてみたい。

そういえば病院のトイレの液体石けんがうがい薬のイソジンの色をしている。ただもっとドロッとした液体石けんらしい手触り。本当にイソジンと同じ成分なのかどうか、トイレ内にあったティッシュに少したらして見た。ヨウ素デンプン反応が起き、青紫になった。まごうことなくイソジンに類するものだ。他の病院などでも、このイソジン液体石けんを使っているのだろうか。

2005.3.31入院生活九日目、見舞いとコルセット<2005.3.31.記>

朝の3時頃、同室の患者が痛みを訴える。他の人も目を覚ますくらいの大きめのうなり声をあげた。しばらくして、看護婦が来た。そしてその第一声に驚いた。「静かにしてください」 確かに声は大きかったが、痛みで声を上げているのである。起こされたとはいえ、それはお互いのけがや病気によるものと言うことは承知している。多少の迷惑はお互い様だという気持ちがある。せめて「どうされましたか、医師を呼びましょうか」とか「痛むのであれば痛み止めをお持ちしましょうか(実際は薬を飲むのには医師の診断が必要なのであろうが)」と声をかけるべきではないだろうか。他の患者を気遣って「静かにしてください」との声をかけたのであろうが、マニュアル化されたルーチンワークに慣れてしまい、何のために仕事をしているのか忘れてしまっているように思えてならない。
僕自身は体の状態も3日ほど前から変化無く、足のしびれも背中の痛みももうほとんど無い。あるのは左足の違和感ばかり。早く歩いたりしたい。午前中は非常に退屈をした。
昼食後、勤務先の先生が一人お見舞いに来る。一週間以上学校から離れてしまっているので、仕事の話が懐かしい感じがする。普段の時は連休があるとうれしいものだが、今日は久しぶりに学校の話ができてうれしい。3時過ぎには卒業した生徒が3名ほど見舞いに来る。必要以上に病室でうるさくならないか少し不安であったが、きちんとしていた。これから始まる高校生活などを頑張って、もっと大きくなった時、また会ってみたいと思う。
そしてまた今日は、コルセットができあがってきた。手術後の回復も順調で、ベッド上の生活が時間をもてあましていて仕方なかったのでとても待ち遠しかった。まずはフロアを一周する。少し息が切れた。一週間以上歩いていなかったせいで、かなり筋肉や循環器系も弱っているのだろう。少し休んだ後、エレベータを使い違うフロアの売店まで行き、少しばかり雑誌の立ち読みをする。10分弱であったが、かなり疲れて血が体全体にうまくまわっていないようなそんな感じがする。急いで病室に戻る。しばらくはこんな感じでリハビリを行っていくのだろう。

2005.4.1.入院生活十日目、たくさんの見舞いと通常歩行<2005.4.1.記>

今日から新年度。担当医師や看護師も何名かは異動したみたいだ。病院も組織であり、年度によって動いているのだと実感。昨日コルセットをつけて久しぶりに歩いたせいか、股関節や尾てい骨のあたりが少し筋肉痛のような痛み。10分に満たない程度しか歩いたりしていないのに少々情けない。
昼食後、生徒(卒業生)3名が見舞いに来た。それとほぼ同じ時刻にあおぞら実験室関係の知人も来た。病室はせまいので別フロアのレストランへ行き、コーヒーを飲む。しばらく後、同僚の先生3名が見舞いに。本の差し入れ。気分転換になりそうだ。勤務先の異動人事についての話などをしていたら、今度は生徒(卒業生)が6名も見舞いに。今日はずいぶんと多い日である。さらにその後、同僚3名が来た。差し入れも本以外に果物に洋菓子に普通の菓子と、かなりの量。全部一人で食べたら後がこわい。
外来の時から世話になっている医師に歩き方を診てもらう。昨日歩行器を使って歩き始めたばかりだが、もう歩行器無しでも歩けるなら歩いてみてください、とのこと。昨日よりは幾分筋肉の疲れも少ないし、かなり順調に回復が進んでいるようである。

2005.4.2.入院生活十一日目、今時の消毒<2005.4.2.記>

気がつくともう十回、病院で夜を明かした事になる。一日一日はとても長いが、振り返るとあっという間だった気がする。術後にしても、もう一週間になる。今日はコルセットをつけた状態で歩行器無しで院内を歩いた。エレベータに乗り違うフロアの売店に行ったりトイレに行ったり、平面をゆっくり歩くことはだいぶできるようになった。しかしやはり左足をかばうような歩き方になるし、階段はまだ恐くて試せない。10分くらい立って歩いてベッドに戻ると、少し疲れた感じがする。回復期のリハビリでは、担当の先生が計画を出して何日目には何をして、その次にはどうする、というのがあると思っていた。術後数日は病室にリハビリの先生の訪問があったが、その後数日間無い。このまま後は自分で歩く練習をするのみなのだろうか。主治医が異動で変わったせいもあり、何となくこのままでいいのかな?、という疑問がわいた。
背中の切った部分にあててあるガーゼ(実際にはシールとガーゼが一緒になったようなものみたいだ)も、数日前に交換したままである。前の交換の時も、数日の間があった。聞いてみると、最近の看護では復活したばかりで弱い組織を殺してしまわないよう、消毒はかなり弱めになっているらしい。消毒という言葉自体もあまり使わないらしい。また外からの刺激にも慣れるよう、切った所などにも割と早めからシャワーなどを浴びるようにするらしい。早く風呂に入れるようになりたい。
今日も見舞客が多かった。生徒(卒業生)2名、義理の両親、友人夫妻。看護師からも見舞客が多いと思われているかもしれない。時間をもてあまし気味の入院生活、色々な人と話す機会があるのはとてもうれしい。それぞれに手みやげを考えて持ってきていただけるのはありがたいが、果物と菓子が非常に多く、うれしい反面、どうしたものか少々とまどう。消化器系統の病気での入院なら食べ物の手みやげは持ってこないだろうが、そうでないので重なってしまうのかもしれない。・・・いやはや、いただいておきながら贅沢な事を言える立場ではない。今日はあと一つだけ菓子の袋を開けるとしよう。

連携不足<2005.4.2.記>
就寝前、看護士が来た。外来の時からかかっている医師が「歩行具無しで行きましょう」との事で昨日あたりから歩行具無しで歩いていたのだが、主治医がその話を聞いていなかったのか、主治医からは看護師にその指示が行っていないものらしい。そこで来た看護士は、「外来の先生はそう言ったかもしれないが、申し訳ないが主治医の先生の指示で動くことになっているので、形だけでかまわないから歩行具を使って欲しい」とのこと。不安感は無いが、漠然とした不信感が募る。

2005.4.3.入院生活十二日目、病院と曜日<2005.4.3.記>

今日は日曜日。入院していると全然曜日の感覚が無いもの・・・と思っていたが、そうでもない。日曜日はあらかたの医師は休みでいないらしく、主治医がいない。他の曜日は初めて診る医師(だと思う)まで色々聞いてくるが、そういうのが全くない。曜日によって決まっている物というと、他にもシーツ交換や教授回診などがある。そういえば入浴も週に四日、男女交代(日曜だけ両方)である。まだ入れる状態ではないが・・・。入院生活も一週間を超えると、そういった流れも見えてくる。しかし入院時にそういったガイダンスはほとんどなかったため(入浴についての説明しかなかった)、「えっ、いきなりシーツ交換しますって言われたって、何をどうすればいいの?」とか「教授回診って何か特別な事するの?」ととまどうことが多くあった。看護側では、その時になればわかることだと思っているのだろうが、きちんと説明がなく行われると、行き当たりばったりという館を抱いてしまう。・・・学校での生徒や保護者対応も、同じように思われている面もありそうだ。気をつけよう。
 午後、大学時代の友人が来た。別フロアの軽食レストランまで行き、1時間ほど談笑。入院しているのを忘れるような、そんなひとときを過ごす。体調も、ずいぶんと回復してきた。少し院内を歩くくらいでは筋肉痛を起こさなくなった。そろそろ階段に挑戦してみたいが、歩行器を使えと言われているので実施できない。明日あたり、主治医に歩行器の必要性について聞いてみよう。

2005.4.4.入院生活十三日目、死(4)と苦(9)<2005.4.4.記>

自分の入院している病室は、建物の構造から見ると4階にあたるのだが、エレベータでは4階が無く5階になっている。病院では一般に、4や9と言った数字が忌避されるのは常識?だろう。エレベータに乗って売店に行く折、ふとこの事について考えた。海外の方が「なぜ4階が無いのか?」と聞いたとき、どのように答えたものかと。日本では死や苦と同じ音なので使われない、説明するのは簡単だが(語学力があれば)、「論理的な(西洋)医学の現場でなんて非合理な事に気を遣うのだ」という疑念を持つ人も多いのではないかと心配した。病院はそういうものだ、と片付けてしまえば今さら違和感は無いが、よくよく考えてみると、そんな迷信のような事を気にする病院は何だかいやだなぁ・・・と思わないでもない。医師や看護師が4や9を信じているとは思わないが、年配の方で気にする方が多いのでそれに合わせている面はあるのだろう。若い世代は気にしない人も多くなっている気がする。新しくできた病院などでは4階や9号室もできている・・・といったことは無いのだろうか。知っている人がいたら教えて欲しい。

術部とシャワー<2005.4.4.記>

教授回診がまたぞろぞろと行われた。病室の噂では、ウソかホントか回診一回に5000円の費用がかかっているそうである。何となく納得できないが、形が大切なのだろう。
ガーゼ交換の時、取ったところを鏡で少し見た。やはり長い。十数cmあるだろうか縦に一本切れ込みがあるところを、テープで横にたくさん留めている。一本の線路にたくさんの枕木が並んでいるような形である。手術後10日、術部からの血などのしみ出しもほとんど見られないため、シャワーが許可される。術部に当てていたガーゼははずされた。また(主治医からも)正式に歩行器無しでよいとの指示がでる。また退院についての話も少し出る。「いつ頃退院したい?」と医師や看護師が聞くので、「階段の上り下りと入浴が心配せずにできるようになったら、早めに」と答える。シャワーの許可が出たと言っても、少し様子を見てから浴びることにする。万が一そこから雑菌が入り、化膿したら大事になってしまう。大学の時、足を打撲した。数日経ち、腫れがひいたので入浴したら化膿し、患部はパンパンにふくれ、膿が足首より下にたまって2倍ほどになってしまったことがあった。熱は出るし意識は朦朧とするしで大変な目にあった。今回は脊髄に関わる部位であるし、万が一にも化膿しては大変である。ガーゼを取ったのが今日なら、数日してからシャワーを浴びることにしよう。

2005.4.5.入院生活十四日目 座骨神経痛<2005.4.5.記>

歩行器無しで歩くようになり数日になる。足の感覚などもだいぶ落ち着いて来た。片足ずつつま先立ちしてみると、右足は普通にできる。左足だが、2日ほど前は足に力が入らずに出来ない状態であった。今日も右足ほどには力が入らず、完全に立つところまではいけない。しかし数秒は立つことができた。この調子なら、運動に関してはほぼ元と同じ所まで戻るような気がする。知覚に関しては、残念ながら切除した神経に関わっている(と思われる)左足外側のふくらはぎは無感覚のままだろう。これに関しても「ま、そんなものか」と言った程度の感想で、特段ショックなどはない。それよりもここ数日気になっていたのが、朝の股関節~尾てい骨あたりのうずくような痛みである。うずくような感じなので、我慢できないとかそういった事はないが、朝起きてベッド横に腰掛けると、決まって両足の股関節から尾てい骨のあたりが痛む。しばらくすると収まってくるのだが、この症状が一時的な物なのか、それともずっと続く物なのか気になる。また痛みの原因がはっきりしないと、「もしかしたら一旦はずした骨がずれて神経を圧迫しているのかな?」等、余計な事を考えてしまう。たまたま今日は朝食前に主治医が部屋をまわってきたので、その旨訴える。「神経を圧迫していたもの(腫瘍)がなくなったためか、それとも寝た後なので座骨神経を圧迫したのかわかりませんが、座骨神経痛のようですね。その状況なら、すぐさま何か処置をするということはありません。様子をみましょう。」とのこと。僕の話の情報だけなので、原因の断定などはできないだろうが、少しホッとする。
朝食後、いつものようにメール等をチェック・返信したあとに病院2階の売店に行く。特に何かを買うことはないのだが、気分転換にもなるし、入院生活の楽しみの一つである。病室に戻る際、階段で上がってみる。思ったよりもすんなり4階(表示上は5階)にのぼることができた。ただ足よりも、心臓がドキドキして血の巡りが早くなったのがわかる。足の筋力もさることながら、循環器系も弱っているようだ。階段の上り下りも行っていくようにしよう。

リハビリ開始<2005.4.5.記>
昼前、いつもの売店に行くため、エレベータでなく階段を使って降りてみた。思ったよりしっかり降りることができた。何かがぶつかったら転げ落ちてしまいそうな感じもするものの、退院へ向けてまた一歩踏み出した感がある。そのまま行けそうだったので、ほんの少しだが病院の正門玄関を出て外へ出てみた。14日ぶりの外の空気。とても新鮮に感じる。無許可で行っているので気が咎め、すぐ病院に入った。病室へ行くのにエレベータを使おうかと思ったが、せっかくなので4階まで階段で上る。だいぶ息は切れたが、足の方は大丈夫そうだ。
そういえば昨日書いた4と9の話。早速メールをいただき、”4階”のある病院もあったとの情報をいただく。今回の入院にあたり、自分の病気をHPで調べた。その中で(馬尾神経腫瘍の)闘病記をまとめたHPがあったことは前にも紹介したが、その縁で、つい数ヶ月前に同じ状況で手術・入院された方とメールをやりとりする機会を得た。その方がこのブログを見て、ご自身が入院された病院では4階や9号室があったとのメールをいただいた。その病院は3年ほど前に建てられたところだそうで、やはり新旧によってそういう違いがあるのかもしれない。
昼食後しばらくしたら、看護師より「リハビリに呼ばれていますよ」と言われる。リハビリの訓練室に行くのは初めてである。今までほっぽらかされていたような気がしていたので、少しホッとする。現在の状態では、背骨の一部を取ってまたはめているので、骨がくっつくまでは背骨を無理に動かすことはできない。そこでコルセットをはめたまま腹筋・背筋を鍛える方法と、しばらく歩いていなかったため弱ってしまったふくらはぎを鍛える方法を教えてもらう。腹筋・背筋を鍛えるのは、要は普通の腹筋運動なのだが、上体を起こしすぎると背骨への力がかかってしまうので、肩胛骨が軽く浮く程度まで持ち上げる運動を行う。持ち上がった上体で数秒停止し、筋肉がふるえだしたら休んで・・・というのを20回ほど繰り返す。慣れてきたら、停止したときの秒数を増やしていくことで調整するそうだ。ふくらはぎの筋力は、手で平行棒などを持ち、つま先立ちを行う事で戻していく。これもつま先立ちの状態で静止し、つかれたら休んで・・・というのを繰り返す。一日の中でちょっと時間が空いたときにやって欲しい、とのことなので、是非とも続けていこうと思う。退院後も続ければ、少しは体を動かすきっかけになるだろう。

2005.4.6. 入院生活十五日目<2005.4.6.記>

朝6時前に目覚め、ベッドの横に腰掛けるとやはり座骨神経痛。寝ている状態ではあまり感じないので、体勢が変わった事による影響か。少々不安になる。しばらくした後、前出の同病だった方からメールが届く。やはり手術後には、同様の症状にしばらく悩まされたと言うことなので、特別なことではない(可能性が高い?)ということで少しホッとする。今回の入院とこのブログを通じ、今まで連絡が疎になりがちだった友人ともこまめにメール交換をしている。自分のブログを見、意見や感想や励まし、さらには関連するような情報をもらえるのはとてもうれしく、元気が出てくる気がする。
午前中、シャワーを浴びた。ほぼ2週間ぶり。とてもさっぱりした。
頭を洗うと、手にたくさんの髪の毛がついてくる。しばらく分の髪が一気に抜けたのだろう。体を洗うと、タオルについた石けんの泡がかすかに灰色味がかる。濡れたタオルで体を拭いていたとはいえ、古くなった皮膚など、たくさん垢が溜まっていたのだろう。手術をした背中は、タオルでこすったりせず、シャワーで流すだけにする。大丈夫だとは思うが、やはり化膿が心配だ。体つきであるが、使っていない筋肉は見事に減っている気がする。特に太ももは、後ろ側があきらかにたるんだ。お腹も、元から人に見せられたような状態ではないが、さらにたるんだ。何とかせねば。現在、背骨を曲げる姿勢、特に腰の辺りを曲げるのは禁じられている。コルセットをしているときには曲げたくても曲げられないが、入浴中や就寝時など、はずしている時が不安になる。曲げようとすると突っ張ったような感じがする。どこまでなら曲げていいのかもわからず、とにかく出来る限り曲げないようにする。体を洗うとき、いつもの3倍くらいの時間がかかった。足を洗うにしても、腰を曲げて洗えない。立った状態で片足をイスの上にのせ(病院の浴室には背もたれ付きのプラスチック製のイスがある)、そして洗わなくてはいけない。日常の生活が、いかにたくさんの筋肉を使い、動いていたのかと思う。

退院予定<2005.4.6.記>
夕方、主治医の先生と話する。今週末の土曜、レントゲンと血液検査を行い、問題がなければ日曜日に退院とのこと。ようやく先が見えた。ホッとする。

2005.4.7.入院生活十六日目 サクラ<2005.4.7.記>

今朝は少し座骨神経痛が和らいだ・・・と思ったが、やはり起きあがった姿勢でしばらくは痛みが強い。昨日から万歩計を使い始めた。昨日は約3500歩。今日はどのくらいまでいくだろうか。今回の入院で、筋肉を使ったりどのくらい歩いたりと、ずいぶん気を遣うようになった気がする。一病息災という言葉があるが、これは無病よりも自分の体に気をつけるようになるからかもしれない。
そう言えば学校では今日、入学式。どんな新一年生が入ってくるのだろうか。今度の日曜日に退院し、月・火と自宅静養、水曜から復帰の予定である。しかししばらくは学校のテンポに戻るためのリハビリも必要になりそうだ。
昼食後、リハビリがてらこっそり病院を抜け出て、すぐ横を流れる石神井側沿いへ行く。場所によりサクラがほぼ満開だ。よく見ると、ピンク味がかったソメイヨシノ(多分)の中に、何本か白の目立つサクラがある。

これが普通のソメイヨシノ(多分)の花。

こちらが白の目立つ方。サクラの細かい品種はもよくわからない(オオシマザクラでは?とのコメントをいただきました)。これまた退院した後の宿題にしよう。15時過ぎ頃、妙に小腹がすく。しかしお見舞いでもらった箱入りの高そうな菓子の包装をはがしてまで食べる気にもならない。丁度数日前に生徒が持ってきた駄菓子が目に入る。”いかにも子どもらしい差し入れだ”と思っていたが、案外気軽に食べられていい感じである。コンビニの品揃えに案外駄菓子が多い理由もわかる。

2005.4.8.入院生活十六日目 ソテツの冬囲い<2005.4.8.記>

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退院(予定)が決まったので、できるだけ普通に近い生活をしようと思う。昨日は一日で4100歩だったが、今日は5000歩を目標に歩こうと思う。
手術後、2回目のシャワーを浴びた。前回よりもスムーズに済んだ。手術した部分がどのようになっているか見たいが、浴室に鏡が無かったので断念。
午前中、病院から川沿いまで歩き、少し近くを散歩してみた。左足の動きもだいぶ元に戻ってきた感じである。歩く分にはほぼ支障は無くなった。ただ少ししびれたような感覚はあるし、うまく力加減できない部分もあり、端から見ると少し引きずっているような感じに見えるらしい。病院に戻ってきてふと見ると、病院玄関前のロータリーでまた一つ春を発見。防寒のためにソテツにワラが巻いてあった(冬囲い)のだが、それをはずす作業をしている。その様子を携帯電話のカメラで撮影。しかし今朝は少し肌寒かった。一年の中で、10度以上の温度差がある日数の一番多いのも4月である。風邪などには気をつけよう。 病室への帰り、階段を1段抜かして上ってみた。少し段差の低い階段だったのもあり、思ったよりすんなりできた。ここ数日、日中はパソコンで作業をしたり本を読んだりし、一時間に一回くらい10分ほど院内を歩く生活である。ベッド横に腰掛ける姿勢が多いが、ついつい猫背のようになってしまう(コルセットがあるのでそんなには丸くないが)。背筋(せすじ)を伸ばそうとすると、背中の筋肉にいかにも力を入れているような感じがする。背筋がだいぶ弱っているのだろう。意識して伸ばし、筋力を戻していきたい。
夕方、リハビリ担当の方が来た。だいぶ歩けるようになった話などをする。日常生活で、どこまで動いていいのか聞いてみたところ、「背骨を大きく動かすような動きは厳禁、重い荷物なども持たないように」とのこと。手術によりはずした背骨が中側(神経側)に落ちてしまうのが一番恐い。外にずれてしまっても、それは外側が少し出っ張るだけでかまわない(?)が、内側に行ってしまったら手術で持ち上げるしかないのだそうだ。それは絶対に避けたい。どのくらい立ったら元と同じように考えてよいのか聞いたところ、レントゲンでその都度骨の具合を見、また本人の痛みや疼き等の自覚症状と照らし合わせながら判断していくのだそう。しばらく外来生活が続きそうだ。はずした背骨を留めているくさびのようなものは、どの程度の強度で留めているのか聞いてみた。しかしそれは手術した医師がその時の感覚で知っているだけなのだそうだ。つまりくさびを留めた元の骨の具合やとまり具合や、そう言ったのは手術した人でないと何とも言えないらしい。手術は3月中だったので、主治医はもう替わっている。外来の医師が手術にも立ち会い、今もいるので今度来たときにとまり具合を聞いてみたい。骨以外にも、背中を切り開いたことで筋肉もダメージを受けている。元のようにくっつくまでには、やはり数ヶ月必要なのだそうである。結局の所、程度まではやってよくてダメなのか、具体的には何とも言えないらしい。少しずつ動作する範囲を広げていき、足や背中の痛みがでないか、しびれはないか等に気を配り、異変があるようならやめる。そうやって馴らしていくらしい。日常生活に戻れるとはいえ、しばらくは自重する必要がありそうだ。

2005.4.9.入院生活十七日目、退院手続き<2005.4.9.記>

今日は最後(の予定)の検査の日である。朝5時過ぎ、「採血をお願いします」という看護婦の声で目が覚める。他の病院に入院していたこともある同室の方の話だと、どの病院でも採血は朝のうちに採ることが多いそうだ。ただ6時が起床なのに、それより前というのは初めてだそうである。だいたい週に2回くらいのペースで採血を行った。前回の検査では、特に異常ではないが若干白血球が多いと言われた。今回はどうなのであろうか。


ベッド横に腰掛け、朝食を摂る。今日は座骨神経痛をほとんど感じない。昨日の夕食後、神経に働くノイロトロピンは飲むが、いつもの痛み止めであるロキソニンは飲んでいない。痛みに関してはかなり快方に向かっているようだ。
レントゲンの検査もあるのだが、時間が未定。あまりふらふらと散歩へ行ったりできない。最終的に昨日は5300歩余り歩いたが、今日はあまり伸びないだろう。
10時過ぎ、フロアの事務担当より退院手続きのメモを受け取る。これを持って一階の会計へ行くそうだ。まだレントゲンを撮っていないのにいいのかと聞くと、看護師と話する。主治医からの説明だと、今日の血液とレントゲンの結果で特に問題がなければ退院とのことだったのだが、どうやらその微妙なニュアンスなどが通っていなかったらしい。しばらく後、看護婦から「多分大丈夫ですよ。手続きをしちゃってください。」との返事。もし万が一レントゲンや血液検査の結果がよくなくて(退院手続きしてしまって)も、入院延長の手続きはできるのか、と念のため聞く。大丈夫だとのことで、会計窓口へ行く。今日が土曜で窓口は午前中で閉まってしまい、明日は日曜、当然(?)窓口は閉まっているのでバタバタするのは仕方ないのかもしれない。会計窓口へ行くと、手続き待ちが10人。銀行や郵便局のような受付機で番号札を取り、15分ほど待つ。手続きそのものは5分弱で終わった。支払額は月収一ヶ月分+α程度。本人負担が3割でその位である。領収書を見ると、指導料、入院料、手術料、検査料などがそれぞれ項目別に何点、と記入されている。1点が10円、そして自分の負担分を3円と計算すると金額のつじつまが合う(点数と金額についての説明は無かった!)。月をまたがった分を合算すると、入院料がおよそ54000点、手術料が68500点、その他が4000点ほど。入院前に費用の概算を聞いてみたのだが、手術により全然金額がかわるし、盲腸などのようにほぼ手術内容が分かってしまうようなものではないので、全体の見積もりできないと言われた。3週間弱の入院そのものより、手術が一番お金がかかっているし、領収書を見て改めて納得した。

2005.4.10.入院生活十八日目、退院を前に<2005.4.10.記>

いよいよ退院の日。正式には、この後医師がレントゲン写真を見、その上での判断になるのだが、恐らく大丈夫だろう。今回の入院を通じ、実に色々な事を知った。病院というある意味特殊な社会の中で生活し、色々な知識も得たし、違和感を感じた部分もあった。この一連のブログでは、自分の病状やその日の日記的な事を中心に書いたので書ききれなかったことも多々ある。1ヶ月くらいのうちに、ここに書き込んだことを中心にして、http://www2.hamajima.co.jp/nisiki0210/に入院記をまとめておこうと思う。馬尾神経の硬膜内髄外腫瘍という比較的珍しい病気、普通の人にわかるような情報がなかなか見あたらなかった。そのような中で僕もまた、以前紹介したCHASUKEさんのHPhttp://homepage2.nifty.com/chasukekun/index.htmからたくさんの情報をもらい、またCHASUKEさんとのメールのやりとりの中から数ヶ月前に手術を終えたばかりの方からたくさんの励ましをいただいた。今回の入院記録が、不幸にして同病にかかってしまった方にとって一助となればと思う。
また入院を通じ、たくさんの人とのつながりもできたように思う。同じ病室の方は、手術の前日や当日、「大丈夫だよ」「頑張ってね」などの声をかけてくれた。何気ない一言
なのだろうが、とても励まされた。上記HP等を通じメールのやりとりをした方には、同病だから分かる情報や励ましをいただき、また今まで少し連絡が疎になっていた友人らとメールを行う機会が増えた。そして何よりたくさんの方が見舞いに来ていただけた。普段はあまり意識していなくても、実に色々な方が自分を支えているのだなと感じた。
ひとまずここで入院生活についての日記は区切りをつけ、以降は退院してからの近況などをあげていければと思う。
(注:文章内のリンクは既に無効)

退院二日目<2005.4.12.記>

日曜日に退院し、今日から学校に復帰しました。しかし駅から学校に行くまでで息が上がってしまいました(^_^;) 入院生活は、色々なところに影響があるようです。一旦はずした背骨の一部がとまるまで、”元通り”とはいかなさそうです。
昨日辺りから、薬は飲まないでいます。左足の方は、じんわりとしびれている感じです。背中は、少しねじった姿勢をすると突っ張ります。ちょっと重い物を持とうとすると、背骨のあたりが少し痛む感じです。ただこれは、入院生活でめっきり背筋が弱ってしまったためのような感じですね。

退院六日目、術後約三週間<2005.4.16.記>

早い物で、退院して明日で一週間になる。日曜に退院した後、火・水と午前中のみ出勤したが、木曜日は少し熱が出て欠勤。金曜日にまた午前のみ出勤。今日(土)と明日(日)を休んだら、来週の月曜から平常通りの出勤に戻せればと思う。手術が終わって退院するまでは、もっとすぐ普通の状態になると思っていた。手術のキズなどで多少の不便があるだろうが、体力そのものまで落ちるとは考えていなかった。しかし少し歩けば疲れ、午前中仕事をしただけで丸一日ハードに過ごした位の疲労感があった。リハビリが大切な訳である。左足の方は、手術後目に見えて症状が軽くなっていったような変化はない。じんわりとしびれた感じがあり、やはりぎこちない。手術をした背中は、すこしずつかさぶたが剥がれかけそうになっているようだ。しかしその中で、背骨の一部がはずれていることには変わりない。まだまだコルセットが手放せない。コルセットをはずした時、少し背骨を動かすだけで少し痛みがある。それははずした背骨と関係あるのか、それとも単にしばらく使っていなかった部分を動かしたための痛みなのか、区別がつかない。下手に動いて背骨がずれては大事(おおごと)なので、安静にしていよう。

手術後約一ヶ月、退院後2週間<2005.4.24.記>

早い物で手術をして約一ヶ月、退院して2週間になりました。切った後、テープで固定していましたが、一週間ほど前より少しずつはがしていき、今日、全部のテープを剥がしました。そこで写真をとってみました。思ったよりきれいですね。まだ当分、寝るとき以外はコルセットをした状態です。寝間着に着替えるときなど、(コルセットをはずした状態で)背中を少し曲げようとすると、背中がつっぱるような感じで少し痛みます。背骨の一部がはずれている状態なので、もちろん曲げてはいけません。そのため痛むのか、それとも一ヶ月ほとんど使っていないので筋肉が痛むのか、それとも切った筋肉が突っ張って痛むのか、その辺の区別は付きませんが・・・。足の方は、しびれる感じもだいぶ収まってきています。神経の興奮を抑える薬(ノイロトロピン)を処方されているのですが、時折飲み忘れても、歩くことは(ちょっとびっこをひきずりますが)支障ありません。コルセットをしなくて良くなる頃(あと数ヶ月?)には、違和感もほとんどなくなるのでしょう・・・か。

現在の状況<2005.5.6.記>

気がつくと手術してからもう一ヶ月と10日ほど経ちました。背中の方は、入浴時も軽くこすって洗える程度までになりました。背中は肉眼で見られないので少し慎重になっていますが、普通にこすっても大丈夫かもしれません。コルセットについては、はずしていいとの指示が出ていないのでまだはめています。背骨を曲げようとすると、突っ張るような感じがありますが、これはしばらく動かしていなかったためか、それとも手術の影響か、区別つきません(両方かもしれませんね)。足への影響ですが、あいかわらず左足が少ししびれているような感じです。しかしその程度は徐々に緩和しています。歩くのは、ほぼ普通にできます。早歩きしようとする辺りから、足の突っ張る感じが強くなり、びっこをひきずるような感じになります。あと数ヶ月した頃、こうした症状が無くなっていればいいのですが・・・。

コルセット、3ヶ月<2005.5.9.記>

本日の午後、退院して2回目の外来に行きました。レントゲンを撮影し、受診。はずした骨がずれている等の問題も何もなく、順調なようです。足の感覚の異常について話をしたところ、手術後の症状は人により様々とのこと。電気が走るように痛む人もいれば、まったく感じない人もいるようです。またこうした知覚異常が起こる原因として、神経というのはオーバーラップしていることが考えられるそうです。知覚神経というのは、同じエリアに例えば何本か張り巡らされていたとすると、全部の神経を取ってしまったら完全に無感覚になるが、残っている神経があるとぼんやりした感じになったり、しびれを感じたり、色々な症状が起こるようです。この後も継続して様子を見ていきましょうとのこと。こうした症状を緩和するため、また一ヶ月、ノイロトロピン(神経の興奮を抑える薬)を継続することになりました。
ただ今日はそれよりもショック?な事が。骨が完全にくっつくまでには3ヶ月以上はかかるのだそうです。ということは、コルセットもあと一ヶ月半くらいはつけていないといけないらしい。そろそろ暑い季節になってきました。蒸れそうです・・・。

近況報告<2005.6.27.記>

ブログもしばらく書けていませんでした。勤務先で運動会や修学旅行などがあり、バタバタしておりました。
退院後、一ヶ月ごとに病院に外来で行っていました。先日行った際のレントゲン結果では、順調に、はずした骨もくっつきつつあるようです。術後も3ヶ月経つので、コルセットをはずしてもよいそうです。ただ重い物を持ったりするときには、しておいた方がいいだろうとのこと。暑い日も続くようになったので、通勤しているときだけはめるようにしたいと思います。

約15年が経過して<2019.10.12.記>

気がつくと術後15年が経過し、アラフィフ近くになりました。
手術後、数年間は1年ごとにMRIで再発していないか確認しましたが、特に異常なく。そして現在、足の突っ張るような感じもほぼなく、知覚も特に異常は感じません。手術痕も、写真のようにほぼ目立たない感じです。

結果として私の場合は手術してよかったと言えます。

コメント

  1. いとー より:

    今日、整形外科専門病院に行きました。
    診てもらうまでは心臓バクバクでしたが、結果は脊髄液が袋状になって溜まってしまった物だそうです。

    人の体にも個性があって、ホクロのようなものだと。水を抜いてもまた溜まってしまうから意味はなく、また、放置しておいても悪さはしないということでした。

    生まれたときからあったのでしょう。と。

    結果馬尾腫瘍ではありませんでしたが、こちらのサイトはためになりました。

    また、先日は、不安なところすぐお返事頂けて嬉しかったです。
    ありがとうございました^_^

    • nisiki より:

      脊髄液が袋状になって溜まる、なんていうことがあるんですね!
      何はともあれ、状況がわかってよかったですね。状況が分からない、というのが一番心配になりますよね。
      何かしらのお役に立てたのであれば、大変うれしく思います。お大事にどうぞ!

  2. Yokuhuka より:

     こんにちは。今日初めてこのページにたどり着き、拝読させていただきました。現在、馬尾神経腫瘍保持者のはしくれ理科教員です。

     理科目線で描かれた闘病記録を興味深く読ませていただき、今後自分に訪れるであろう手術に関する知識と術後の様子が手にとるようにわかり、大変参考になりました。

     勿論、個人の病状による違いはあるかとはおもいますが、数年前から少しずつ症状があり神経痛だと思っていたことや、現在は痛みを感じない時もあれば、息ができないほど痛くてしばらく動けないこともあるなど、Nishiki さんの入院前の様子とよく似ています。(同職なので、シュチュエーションをイメージしやすいのかもしれません。)
     また、約17年ほど前の記録になるかと拝見したのですが、手術方法の概要も同じもので、背骨を外して脊髄を引っ張り出し、切開して腫瘍を取り除くと担当医から説明を受けました。

     ただ、今問題なのは、コロナの影響で手術の予定が全くたたないということなのです。
     今年1月に個人病院で見つかり、3月の春休みに手術したいと希望すると、そこまで待ってられないだろうと言われたのですが、紹介された大学病院の初診で、コロナ禍のため命に関わる手術が最優先されて横から入ってくるらしく入院の見通しすらたたないとのことでした。

     おそらく数年かけてじっくり成長させた腫瘍が、これから急成長を遂げるとは思えないのですが、数ヶ月先の何時になるかわからない手術までどのような生活がベターなのか腫瘍と付き合った経験のあるNishikiさんのご意見をお聞かせ願えますか。術前に気をつけておけばよかったことやこれは大丈夫だったと思えることがあれば、教えていただきたくコメントさせていただきました。
     ちなみに、現在自宅療養中です。でも、仕事に行っても大丈夫なんじゃない?って感じたりしもします。周りから見ると、どこが痛いの?って思われがちです。よろしくお願いします。
     

    • nisiki より:

      Yokuhuka様
      コメントいただき、ありがとうございます。そしてまた少しは私の闘病記録が役に立ったのであれば望外の喜びです。(病気なのに失礼ですね汗)

      詳細はコメント欄だとお話ししにくい部分もありますので、別途連絡させていただきます。

  3. Yokuhuka より:

    早々のご連絡ありがとうございます。
    よろしくお願いします。

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